瞑想の効果を実感してみて下さい。

超越瞑想(TM)の方法や効果について詳しくご紹介します。

静寂のひととき……TM瞑想

瞑想で脳の潜在力を開発!

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世界中の様々な宗教の聖職者たちが超越瞑想を実践しています。アメリカのTM瞑想のサイトには、18人の宗教界の指導者たちが、超越瞑想を実践することで、精神的な体験が深まり、自分の宗教の教えを実際に生きることができるようになったと記しています。

その中から3人の宗教家の体験談をご紹介いたします。

愛、許し、思いやりが増す
ミラル・シャアバン
イスラム教(エジプト、カイロ在住)

私はベールを身に着けているイスラム教徒であり、超越瞑想を実践しています。私は、2006年12月にTMテクニックを習いました。初めて瞑想をした後に、お祈りしたときのことを忘れることができません。それは言葉を失うほどでした。完全な静寂と満足と神への感謝の状態を、うまく説明することができません。TMは、私の信仰における受容と満足のレベルを上げ、信念を強めました。

例えば、コーランを読むことがより楽しく心地よくなっています。そして今では、コーランの教えと周りの全てのことをより良く結びつけることができます。日常生活の中で、コーランの意味を理解する能力が増しています。明らかに、TMとTMシディプログラム(TMの上級テクニック)を実践すればするほど、宗教の異なる側面と私の人生の使命について、より深い気づきを得ることができます。

これまでの人生において、私は、創造や人生の目的に関する質問を、自分自身に問いかけてきました。今は、私のささやかな洞察力が強められ、すべては理由があって起こっているという強い確信を持つようになりました。もし自分が安全であると感じられ、内側に平和が保たれていれば、とても容易に、神の英知を通して人生が展開していくのを信じることができるでしょう。何が起きているのか、知的なレベルで完全に理解していなくても、内側に平和が成長することで、より気楽に人生のどんな状況でも取り扱うことができるようになります。明らかに、毎日のTMとTMシディプログラムの実践は、私の心をよりすばらしい知識と経験に開かせてくれます。

こうした心の拡大によって、より肯定的に人々の心を高めるような形で自発的に行動している自分に気づきます。他の人への愛、許し、思いやりが増しています。それらすべては、まさに私の宗教と信念に関係していることです。私は、神が創造した世界との調和を楽しんでいます。そして私にできる全ての方法で、社会を助けたいと強く願っています。

瞑想によって、自分の内側には限界がないことを感じています。そして瞑想の後、私はより柔軟で、機敏になり、仕事に対する集中力が高まっています。そしてより明確で創造的に考えることができます。そして、宗教的な実践を行うとき、体験全体がより深遠に、より精神的なものになります。

最後に、TMとTMシディプログラムは宗教ではなく、個人的な信念や文化的な習慣を変える必要はありません。TMとTMシディプログラムは、精神的、感情的、身体的なストレスや緊張を取り除くことで、その人が信仰する宗教をより完全なものにします。私自身の経験からも、ストレスや緊張を解消すると、心と体が浄化されて強まります。その結果、宗教的人生の至高のゴールと調和して生きるというすばらしい能力がもたらされます。

TMは祈りの人生を高める
キャロル・ワーツ(ニューメキシコ州アンソニー在住)

私は22年前にカトリックの修道女になり、14年間、超越瞑想を実践しています。このテクニックは、私の人生の様々な領域でとても役に立っています。ストレスがあるときはもちろん、毎日の生活でも、心を穏やかにし集中力を高める助けになっています。また肉体面における効果も感じています。筋肉の緊張が和らぎ、呼吸がリラックスし、意識がより拡大しています。そのような超越瞑想の効果を証明する科学的研究はたくさんあります。

超越瞑想は宗教ではなく、教義のような教えもありませんから、私のカトリックの信仰に支障はなく、衝突するところもありません。長年、このテクニックを実践して、私の祈りと信仰の人生は高まっていると強く感じています。

TMのおかげで、より良い牧師になっている
ドン・ランスキー師
(ユニティ・チャーチの聖職者、ヴァージニア州シャーロッツヴィル)

私は1970年に初めて超越瞑想を習いました。TMを何年も実習することで、私は自分よりも偉大な存在への気づきが増しているように思います。

特に、TMの合宿コースに参加したとき、私の気づきは、創造主への深い感謝、つまり、イエス・キリストの深遠で不変な愛へと花開いていきました。TMと私の信仰と実践の間に矛盾はありません。実際に、TMは神への信仰を強めるのに役立っただけでなく、祈りの人生をも深めてくれました。

私が初めてTMを習った1970年には、TMに関する科学的研究は、ハーバード・メディカル・スクールで行われた1つの研究しかありませんでした。しかし現在は、600を越える科学的研究が、TMは健康と幸福の促進に役立つことを立証していてます。TMは世界で最も広く研究されている瞑想法です。

実際、私は1日2回のTMの実践なしに、教会で説教を行うことは想像できません。TMによって得られる深い休息と静寂は、バランスを保ち、エネルギーを増し、精神性とのつながりを持つことを助けてくれます。そして、牧師としてのストレスや、厳しい要求に対処する助けとなっています。つまり、私はTMのおかげで、より良い牧師になっていると思います。

38年以上のTMの実践経験と、科学的研究の増加から、私は心からTMを薦めることができます。宗派に関わらず、特に聖職者の兄弟姉妹にお薦めしたいと思います。
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2010.06.22 14:14 | 瞑想と宗教 | トラックバック(0) | コメント(-) |
あらゆる宗教の人々が実践する自然なテクニック

超越瞑想法は、聖職者も含めて、あらゆる宗教の何百万人もの人々が実践している簡単で自然なテクニックです。超越瞑想法を実践するために、何かを信仰したり、特定の信念を持ったりする必要はありません。超越瞑想は、努力の要らない科学的に効果が実証されたテクニックなので、誰でも、どこにいても、例外なく適用でき、その効果を科学的に実証することができます。

聖職者は語る

「TMはクリスチャンとしての成長を助ける」

CraigPic_Sm[1]超越瞑想をすることは、毎日休暇をとっているようなものです。それによって、私の身体はリニューアルされ、心が落ち着きます。私は執筆や講演の仕事が多いのですが、超越瞑想をすることで創造性が溢れ出てきます。

いつも感じているのですが、超越瞑想法は私のクリスチャンとしての成長に取って代わるのではなく、クリスチャンとしての成長を助けてくれるものです。実際、私は、超越瞑想を3か月実践した後、人生をキリストに捧げることを決意しました。

私は、どのクリスチャンにも、どの宗教を信じる人にも、こう言うでしょう。超越瞑想はあなたの人生に恩恵をもたらします、と。それはテクニックであり、何かを信じることを必要としない簡単なプロセスです。それは宗教ではありません。心を乱すような思いがたくさんあったとしても、超越瞑想をすれば、お風呂に入ったような気分になります。とても浄められ、とても爽快になります。(クレイグ・オーバーマイヤー牧師、博士、インディアナ州インディアナポリスの牧師カウンセラー)

「生命の深遠さを体験する」

ds_glance_what.jpg「超越瞑想がなければ、私は、自分が満足するまでラビとしての責務を果たせなかったでしょう。私の内側にはとても大きな静寂の宝庫があるので、病人や死を迎えようとしている人と一緒にいることのストレスや、葬儀、結婚式、成人式のプレッシャーに上手に対処することができます。私は、緊張している状況に入っていき、自然に人々を落ち着かせることができます。人々は私がその場の緊張を和らげて鎮めたことに感謝してくれます。

超越瞑想の効果としてさらに重要なことは、私を優れたラビにしてくれたということです。なぜなら、超越瞑想によって、生命の深遠さを体験し、洞察することができたからです。その結果、私は、自分が属する伝統に関する知識の真の奥深さを表現できるようになりました。( マニトバ州ウィニペグにあるベト・イスラエル教会堂のラビ・アラン・グリーン)
マハリシ14

「神の光に至るための最短の道が超越瞑想です」

別々の宗教の信奉者のあいだには、どうも対立が生じてしまうようですが、そうなってしまうのは、「他の宗教のなかに存在するものも、自分が信じる神の光と同じである」という事実を知らないためです。

他の宗教の教典を軽視する人は、自分が信じる神の光を軽視しているようなものです。別の言葉で語られた自分の宗教を軽視することになるのです。

どんな宗教の信者であれ、悟りに達した人であれば、神の光に完全に目覚めているので、いたるところに自分が信奉する神の光を見ます。そのような意識レベルにおいては、神の光があまねく行きわたっているのです。神の光が、蟻や象や虎や牛の命、あらゆる生命を管理しているのを見ます。

神の光は永遠に同じです。悟りに達した人は、自身の自己参照する意識において、それを見ることができます。神の光は超越的な実在であり、どのような言語で表現されようと、その言語からは何の影響も受けないのです。

そして、神の光に至るための最短の道が超越瞑想です。神の光を経験するとは、一種の超越的な経験です。どの宗教も目指すところは、この同じ神の光なのです。超越瞑想は、これを経験し日々の生活に定着させるための、最も自然で最短の方法なのです。

どんな宗教であっても、その教義の核心をなしているのは超越するための方法です。超越の体験を得る方法については、いつの時代も、さまざまな宗教の教義のなかで、さまざまな言語で、さまざまに表現されてきました。

時と場所が異なり、表現形式が異なったとしても、教えの本質はみな同じです。たどる道の本質はみな同じです。目指すところの本質はみな同じです。同じ教えが別の世代では違って解釈されたとしても、その本質は同じなのです。マハリシ
 今回は、1964年に、マハリシとイギリスの修道院長が対談したBBCの番組についてご紹介いたします。このBBCの番組は、マハリシの出演した数多くのテレビインタビューの中で最も有名なものの一つです。以下の文章は、TM運動30年史から転載したものです。

                 ☆ ★ ☆

picsc68.jpg 1964年、マハリシがロンドンを訪問した際、「ビューポイント(視点)」というBBCテレビの人気番組に出演しました。二人の精神的な指導者、マハリシとダウンサイドの修道院長が対談したこの番組は、何百万もの人々に超越瞑想の教えを伝えました。放送の後何ヵ月間も、ロンドンのTMセンターは、イギリス各地からの問い合わせや電話や超越瞑想の指導に大忙しでした。

 番組を見たある人は次のように述べました。「神聖な二人の出会いを見た人たちは、二人が互いの内側の精神性を直ちに認め合ったあのすばらしさ、彼らの声の調子、彼らの静けさ、飾らない態度、互いに相手の言うことに耳を傾ける姿勢を、永遠に忘れないでしょう。」

 次に掲げたのは、マハリシとダウンサイドの修道院長の生き生きとした議論の一部です。

司会者:マハリシ・マヘーシュ・ヨーギーは、ヒマラヤからやって来た瞑想の教師です。彼の教える瞑想法は非常に簡単で、それを用いれば個人の内側の葛藤や社会全体の緊張をすべて取り除くことができると言われています。マハリシの公式な言葉によると、この瞑想法は、世俗的な欲求を捨て去る必要もまったくないし、僧侶のように人生から引きこもる必要もないということです。また、体の運動や自己の抑圧や禁欲はまったく含まれていないそうです。

 今、アメリカでは、マハリシのこの瞑想は、薬ではない精神安定剤として、またまったく新しい形の睡眠薬として歓迎されています。瞑想を実践している人たちは若返って見えるとか、家族との関係がよくなるというようなことも知られています。しかし、マハリシによると、これらの効果は彼の教えの単なる副産物にすぎないということです。最も重要なことは、彼の教えによって誰もが、キリスト教が万人の中にあると説く神の王国に触れることができるということです。

 さて今晩は、マハリシの教えの特にこの点を探ってみることにしましょう。私たちのこの仕事を助けていただくために、非常に幸運なことに、ダウンサイドの修道院長であるバトラー神父に来ていただくことができました。しかし、まず最初に、マハリシの教えの実際的な面から始めることにしたいと思います。マハリシ、最初に、あなたがどのようにしてこの技術にめぐり会ったか、それを話していただけませんか? どのようにしてそれをお始めになったのですか?

マハリシ:インドの私の先生の非常に系統的な教えによってです。

司会者:あなたの先生はどなたですか?

マハリシ:ジャガッド・グル・シャンカラーチャーリヤ・スワミ・ブラーフマーナンダ・サラスワティという方です。彼はヒマーラヤの偉大な聖者で、すべての人々に敬愛された人です。

司会者:彼はヒンドゥーの聖者ですか?

マハリシ:そうです。ヒンドゥーの聖者です。しかし、私が思うのは、どの宗教もその本当のエッセンスは同じだということです。つまり、宗教の教えの神髄とは、あらゆる人が人生の葛藤や不安や悲しみや苦しみを越えて、平和で喜びに満ちた、調和的な人生を生きることができるようにすることです。

司会者:だれでも、あなたの瞑想法を学ぶことができるでしょうか?

マハリシ:だれでもできます。なぜなら、何もする必要がないからです。ただ、自分自身の内側のより喜びに満ちた領域を心が楽しむようにすればよいだけです。

司会者:体の面で要求されることは何もないのですか?

マハリシ:ありません。もちろん、神経系は正常でないといけません。欠陥のある神経系ではいけません。人間の内側の「存在」は至福に満ちています。心はその至福に満ちた「存在」にやって来ます。それは、内なる神の王国です。キリストは、神の王国はあなたたちの中にあると言いました。そのために、内側へいくその方法は、非常に簡単なものです。だれでもそれを行うことが出来ます。

司会者:だれでもできる、しかも非常に簡単なのですね。では、実際にどのように始めるのか、それを少し分かるように話していただけませんか?

マハリシ:どのように始めるかですね。すべての人に共通なことが一つあります。それは、どの心もより多くを楽しもうとすることです。だれの心も、より少ない幸福の領域からより豊かな方向へ進もうとします。これが、あらゆる人の心にもともと備わっている共通の要素です。さて、心が外側で経験する喜びは、心が考えの精妙なレベルで経験する喜びよりもずっと小さなものです。「存在」の領域に近づくにしたがって、心は次第に増大する魅力を感じるようになります。そして、この想念の精妙な領域へと一歩一歩進むたびに増大する魅力が、心を自動的に内側へ引き寄せるのです。私たちは、「存在」のあの領域へ行くために、集中したり努力をしたりする必要はありません。私たちはただ、心をそちらの方向へ行かせればよいのです。そうすれば、心は進んでいきます。

司会者:しかし、これは相当進んだ想念と心のコントロールが必要のように思われます。このようなことは、十分に訓練して準備してからでないと学べないのではないのでしょうか?

マハリシ:そんなことはありません。私たちがラジオ番組を聞いているときに、もし美しい音楽が流れてくれば、心は自然にそれに引かれていきます。より美しい音楽を楽しむために訓練をする必要はありません。(続く)

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(前回の「マハリシと修道院長の対談1」の続きです。)
 
司会者:修道院長にお尋ねしたいのですが、あなたは、マハリシがおっしゃるように、神を見いだすことが簡単だと、あるいは簡単でありうるとお考えになりますか?

修道院長:それは、私を大いに悩ませている問題の一つです。一部の人たちにとってはそうかもしれません。しかし、これはあらゆる人のための普遍的な技術として提供されているものです。マハリシがお話しになっているような神との合一の高みあるいは深みに達するまでには、普通の人は長い、時にはつらい努力を重ねなくてはならないというのが西洋の私たちの経験であるように思います。

マハリシ:実は、修道院長、私たちの聖典が「神の王国はあなたたちの内側にある」と教え続けてきたにもかかわらず、私たちは過去何世紀にもわたって、神を見いだすことは非常に難しい、神はどこか天の遠いところにいらっしゃると教えられてきました。私たちは、聖典のそのような教えを受け取らないで、預言者たちの教えの他の部分ばかりを強調してきました。そして、そのために、全能にして慈悲深い神があらゆる人の前に現れることが難しくなってしまったのです。

 私は今こそ、神の王国はあなたがたの内側にあるというキリストのこの教えを復活させ、それを強調すべき時であると思います。そして、私たちの内側に神の王国を持てば、人生で苦しむ必要はなくなります。私たちは、ただ神の恵みを楽しむだけです。それはそこにあります。楽しむためには、ただ自分自身の内側深くへ飛び込むだけです。自分自身の内側深くへ飛び込むためには、考えの過程を逆にたどっていって、考えの最も精妙な状態に達すればよいのです。そして、それは至福に満ちています。経験から分かることは、瞑想は楽しいものだということです。長い間瞑想を続けないと、そのような喜びを経験することができない、というものではありません。すでにこの五年間に、何万もの人たちが、瞑想をすると幸福に感じ始めるという経験をしてきました。

司会者:しかし、修道院長、キリスト教には、この至福の状態以上の教えがあるのではないでしょうか? つまり、キリスト教の教え全体の中では、苦しみは非常に重要であり、苦しみを通じて救いを得るということすらも教えられています。それに対し、マハリシは、苦しみは不必要であって、望ましくないものであるとさえおっしゃっているようです。

修道院長:それは、この状況全体の中でも最も難しい問題の一つであるように思います。結局、苦しみは私たち人間が出かけていって求めるものではなく、向こうから私たちの所へやって来るものですから....

マハリシ:まったくそのとおりです。求めなくてもやって来ます。

修道院長:それは私たちの望まないものですが、しかし、非常に現実的なものです。それは私たちの実存状況の一部ですが、あまりありがたいものではありません。おそらく、もしなにか慢性の病気で苦しんでいる人がいたとしたら、あるいは、非常に愛していた人を亡くした人がいたとしたら、「苦しみは問題ではない」と言ってあげるのがよいでしょう。そのような人たちには....

マハリシ:いえ、いえ。私たちは苦しみは問題ではないとは言えません。私たちができることは、その人が幸福になるような何かをその人に与えることです。その人がもっとエネルギッシュになって、もっと有能になって、苦しみを感じなくなるような何かをその人に与えることです。

修道院長:そうです。苦しみはあっても、それに対処する方法が何かあるはずだと私は思うのです。

マハリシ:それに対処する方法があります。苦しみがやって来ないように人生を生きる方法があります。

修道院長:そうです。そうです。

マハリシ:それに対する方法があります。朝と夕方の瞑想、これがまさにそれです。(続き)
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 マハリシと修道院長との対談の後半で、マハリシは、彼の教えと修道院長の理解の類似を明らかにする深い洞察を述べました。

修道院長:神はその慈悲から人間を求めているという深い真理があります。神が人間から善を得ようとしているのではなく、神が人間に善を与えようとしているのです。

マハリシ:たいへん素晴らしいことです。これが神の慈悲深い全能の本質です。神はすべての人の心の中に最大限にその恵みを与えられました。そして、神は人間をその恵みから離れられないようにしました。人はただ飛び込み始めればよいのです。そうすれば、あらゆることを通して神の恵みを生きられるようになります。

修道院長:私たちにとって非常に重要なことは、私たちは神との合一において、それは私たちが自分の努力によって達成したものではなく、神が愛の贈り物として私たちにくださったものだ、と思うべきだということです。私たちは神に対して非常に感謝すべきであって、「私は自分の努力によってこの段階に到達した」と言うべきではありません。「神が私をここまで導いてくださった」と言うべきです。

マハリシ:素晴らしいことです。私たちの達成をすべて神に捧げて、それについて幸福に感じ、神に感謝するのはいつもよいことです。あなたがすでにおっしゃったように、それは私たちの努力によるものではなく、努力を最少にしたからです。瞑想においては、私たちは努力をしません。私たちは心がより努力のない状態に入っていくようにします。なぜなら、精妙な状態を経験するときには、努力は次第に少なくなっていって、それからまったく努力がなくなるからです。まったく努力がなくなります。そのような理由から、それは私たちの努力からではなく、神の恵みからだと言われるのです。神の恵みがあらゆる段階で、心をより大きな幸福へと引き寄せていきます。私たちはそうして神の悟りを達成します。たいへん素晴らしいことです。

修道院長:別の言い方をすれば、私たちは神の恵みを働かせなくてはいけません。

マハリシ:神の恵みは働いています。私たちはただ自分がそれを受け取り始めるようにすればよいのです。

司会者:マハリシ、私はあなたと修道院長のアプローチが非常に似ているということに驚きました。しかし、もちろんあなたの瞑想の基はインドの宗教にあるのですね?

マハリシ:私の瞑想の基は、より大きな幸福の場へ行こうとする心の願望にあります。より大きな幸福の場へ、「存在」へ行こうとする心本来の傾向にあります。「存在」は至福に満ちた性質のものです。「存在」は至福に満ちています。そして、心はより大きな幸福の場へと進んで行きます。

司会者:マハリシ、あなたにとって、キリストの生涯はどのくらい重要でしたか?

マハリシ:私はキリストの「神の御国はあなたがたの内側にある」という教えと、私たちがしなければならないことは、「まず、神の御国を求めることである。そうすれば、他の物はすべて添えて与えられるだろう」という教えが大好きです。

修道院長:それではあなたは、神との愛の合一とは、愛によって神の中に憩うことであり、このような合一の中に、私たちは満足を見いだす、というキリスト教の説明の仕方を受け入れられるのでしょうか?

マハリシ:たいへん素晴らしいことです。なぜなら、それは愛であるからです・・・それは神への愛、至福への愛、幸福への愛です。それが心を自然に導いて、「存在」の状態へと自発的に落ち着かせます。

修道院長:マハリシ、あなたにぜひお尋ねしたいことが一つあります。瞑想で到達する状況は、私たちが神を見いだす状況と同じであるといえるのでしょうか。そう言ったとしても、あなたはそれを退けることはなさらないだろうと私は思うのですが・・・。

マハリシ:そうです。そうです。それは神を見いだす唯一の道です。神を見いだす唯一の道です。

 司会者はここで放送を締めくくりました。

司会者:さて、マハリシ、修道院長、お二人ともたいへんありがとうございました。マハリシがおっしゃったことのなかには、現代キリスト教神学者たちが神と同一視している私たちの「存在」の基盤というものと確かに共鳴するところが大いにあったのではないかと思います。今は明らかに、どの宗教も自己の点検を行っているときです。特にキリスト教はそうであるようです。すべての宗教がいっしょに集まって、互いがどんなに離れてしまっているかに気づくことが、重要なことではないかと思います。

このインタビューから、マハリシの考えはいつも焦点が定まっているということがわかります。質問者が神という心を高める角度から近づこうと、あるいは、苦しみという心を沈める角度から近づこうと、その質問によってどんな場所に置かれようと、マハリシは「存在」の至福の中へと飛び込む「飛び込み台」をそこに見いだしました。マハリシが自分の教えに自然に焦点を定めているそのことが、視聴者や修道院長の心を動かし、また司会者を大いに喜ばせました。司会者は、マハリシの教えがあらゆる宗教の真理と矛盾するものではなく、むしろ溶け合うものであることを理解しました。(終わり)

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 神実現がとても簡単であることを語ったマハリシの言葉をご紹介します。

                ☆ ★ ☆

 過去何世紀にもわたって、宗教は大切なことを一つ見逃してきました。世界中にこれほど多くの苦しみや悲しみ、争いがあるのはなぜでしょうか。それは、宗教が「善い人間でありなさい。善いことをしなさい。そうすれば、天国への門は開かれるであろう」と教えてきたからです。善い人間であることが神への道であるとされたわけです。

 これは、完全に間違ったことです。なぜなら神を実現して初めて、人間はよいことができるようになるからです。神実現はたやすいことです。善い人間であることはとても難しいことです。人生にあるすべての善は、神に接する結果として生じます。神に近くあること、または神意識の幾分かを自分のものとしたときに、人は間違いから解放されるのです。

 神意識を得ようとせず、神に近くあろうと努めず、ただ善い人間であろうと努力することは、摩天楼を土台を築かずに建てるようなものです。決してそのような建物が建設されたことはありません。

 神がまず最初に見いだされるべきでした。そこから、すべての宗教的生活、善い生活、正直な生活、正しい行動の結果が生じるのです。不幸なことに、宗教はこの事実を何百何千年という間、見逃してきたのです。

 宗教関係者の誤りは、ちょうど馬の前に車を付けたようなものです。それでは車は決して進みません。神は人生の操縦士であり、神は第一番目にもたらされるべきなのです。そうすれば、人生の車は運転され進みます。人生が先にきて、「正しい生活を送りなさい、清浄でありなさい」などと言っていたら、神は後ろにいることになります。そうなると、人生の車は進みません。

 超越瞑想は、私たちの内側に神の「存在」を増していきます。そうでなければ、宗教の全領域は理性のレベルに、精神的幻覚の基に置かれてしまうのです。神への想いは、神について考えるということです。喉が渇いているとき、水のことをいくら考えても乾きは満たされません。水について考えることは、水を得ることではありません。神を想うことで救いを得ることはできないのです。救いとは神と私たちの直接の関係であり、神を私たちが認識することなのです。これはとても簡単なことです。正直であろうとするよりもずっと簡単なことです。

 タバコを吸う人が、喫煙を止めようとするのは大変なことです。けれどももし喫煙が悪いことであるなら、神意識を得ることによって、タバコを欲しいと思わなくなります。これはとても楽なことです。神意識を得ることは、ずっと簡単なことです。正しくあろうとすることはずっと困難なことです。

 一番大切なのは瞑想です。私は何であるのか、神の普遍在とは何であるかという認識を与えてくれる「存在」の明瞭な経験です。自分自身を知り、主を知るなら、どこにいようとも場所に関係なく、私たちは安泰なのです。これは簡単でやさしいことです。キリストも言っています。「神の王国と神の正義を最初に見つけなさい。そうすれば、これらすべてのものはあなたのものになるでしょう。」

 もし、キリストが神意識を得るのは難しいと考えていたならば、このような言葉は述べなかったでしょう。まず神の王国を探すことです。神の王国は、あなた自身の内にあるのです。マハリシ(過去のユートピアより)
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天国は超越意識の中にあります

質問者:自然法則とは不公平なものです。ある人は立派な容姿に生まれ、ある人は醜く生まれます。まったく知的でない人もいます。

マハリシ:自然法則に意識的に調和して生きる人は皆、あらゆるものを受け取ります。その人は美しく、知的で、敏感で、落ち着いていて、魅力的になります。愚かで不幸な人は、すべてその人に責任があります。自然法則は、すべての人々に対して平等であり、原則的に正しいのです。

私たちを取り巻く自然と、私たち人間の自然本性は、基本的には同じです。TMにより、意識のレベルで、自然と、人間の自然本性を、再び統合させます。自然法則と同調することによってのみ、完全な幸福がもたらされます。

質問者:天国はどこにあるのでしょうか。

マハリシ:天国は、超越意識のなかにあります。瞑想を行うとき、内側の意識のなかに天国を体験します。天国はすべての人の奥深くにあります、これはなにも新しいことではありません。以前から言われていたことです。「天国は汝の内にある」と。

地上に天国を構築するということは、単にすべての人の内面に存在する天国を体験するということです。いついかなるときも、至福の泡で満たされている、そのような意識を楽しむことです。

人々は幸福になることがいかに簡単かを忘れてしまいました。そこで、天国は空のかなたのどこかにあると考えるようになったのです。

質問者:あなたにはご家族がいらっしゃいますか。お子さんはいらっしゃいますか。

マハリシ:世界全体が私の家族です。すべての人々が私の子供です。自分自身の奥深くを見つめるなら、あなたはすべての子供たちの父であり、母であることが分かります。例えば、市長は、町全体やその町のホールを自分が所有しているという意識や、自分がその市に住むすべての人々の父親であるという意識をもっています。一国の大統領の意識は国の全範囲を包括します。瞑想を通して、私たちが天国に住むことができるとき、天国は私のものです。すべての行為が至福の内にあるのですから、あらゆるもの、すべての人々を豊かに育みます。

質問者:ローマ法王は、人間が天国へ行くには、苦難の道を行かなければならない、とおっしゃっています。苦難と懺悔によって、人は免罪を受けるのです。唯一苦難を通してのみ、人の魂は天国に至ることができます。苦難がその方法なのです。

マハリシ:もし苦難が天国への道なら、私は別の道を行きます。私自身の体験から天国へ行く近道を、私は知っています。人はより明るい光を見て、もっと大きな喜びを体験するでしょう。もし、天国への道が苦難に満ちたものであるなら、それは天国への道ではありません。苦難は地獄へ至る道で増大します。それは誤った概念です。天国への途上にある人は、母親のもとへかけていく子供のようなものです。その一歩一歩が、より大きな幸福なのです。(1988年オランダ・パノラマ誌より)

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